以前、初めて、横尾忠則さんの本『隠居宣言』を読み、
こちらに載せたことがあった。
その後、横尾氏の最近の新書も読もうと思い、
その『死なないつもり』を読んでみた。
やはり、とても面白かった。
80歳になった横尾さんが、問いかけられた
創作について、老いについて、人生についてなどあれこれ
今思うところを話している。
努力は最小限でいい。僕はそう思います。
日本人は「努力します」とか「努力すれば開ける」とすぐ言うけれど、今の社会を見ていると、努力しすぎじゃないですか。(中略)
すごく才能のある人がいて、ぽんとあるところまで行ってしまう。その人が努力していない、ということではありません。でも、その才能を支えているのはなんだろうと考えると、努力以外の何かが強く働いているような気がしてならない。
いってみれば、努力は自力力(じりきりょく)です。だから、努力以外の何かというところでは、きっと他力が作用しているのだと思う。他力を味方にする力、他力を味方につける努力、そういうものがあると思う。
似たような意味で、無心、無頓着も大切です。
"努力の根底には、遊び的なものがないといけないと思うんです。”とも
学校や塾では、与えられた答えにどうやって早く到達するかということばかりやっているから、答えがない状態になるとどうしていいかわからなくなる。そしてすぐにダメだ、やめましょう、もしくはやり方を変えましょうとなる。強制的にさせられる努力は、もろいのです。
現実というのは、そんなに簡単じゃない。やってみないといいか悪いかはわからないものです。向う見ずにやってしまうと、他人も力を貸してくれるもの。結局、そういう人が残っていくんですよ。
これは、本の最初のところだが、
さすがに、狭い社会にとらわれず
自由で、柔軟にどんどん変化していくことをいとわない
創造的な精神の持ち主の語りは、興味がつきない。
大人になることは個性を持つこと、自分らしさを持つこととされています。アイデンティティを持つということです。だけど、僕はそのことを強調しすぎるとよくないと思うんです。個性の強調が自分を型にはめるというか、新しい自分が出てきた時にどうしたらいいかわからなくなる可能性があります。
アイデンティティは一つではありません。(中略)
キョロキョロ落ち着きなく、興味を持ったら結果を考えずにやってみる。飽きたら放り出す。そういう子ども心をずっと持ち続けていたいんです。
この章に、こんなくだりもあった。
そもそも子どもは親の思い通りにならないものですよ。魂が違うから。親からDNAは受け継いでいるけれど、魂はそうじゃない。それぞれが独自の魂遍歴をして、この世に生まれてきている。僕は輪廻転生を信じているので、前世があってこの世界に生を受けたと思っています。なんで横尾家に生まれたかと子どもに質問されたら、「来たかったから来たんじゃない?」と答えるしかない。魂がここに来たかったんですから。
それぞれの好みだと思うけれど、
さすが宇宙的な広がりを持つ横尾さん
思わず笑って(賛同して)しまった(笑)
後ろのほうに、
「僕はタマの下僕です」という愛猫の話があって、
これがまた、面白い。
猫と暮らして(いや、暮らさせて頂いて)いる人は頷けるかも。
いずれにせよ、あ、そうなんだぁ…と読みながら、
どこか閉塞的な現代社会で
風通しよく生きていく在り方を
感じられるかもしれません。
質問されると、「それはなぜですか」ということに答えないといけなくなるけれど、本当はそれが問題なんです。
「なぜ」に答えるためには、物事を理屈で考えていくことになります。それを繰り返すと、どんどん細かくなっていって、身動きがとれなくなる。(中略)
もともと答えなんかないんですよ。ほっとけば、そのうち答えは出てきます。気がついたら無意識に答えをやっていることもあるし、しばらくして問題から離れてしまった、問題があったことすら忘れてしまったということもあります。それが、答えなんですね。
理屈をこねないで、無頓着で暮らすのが一番です。質問を続けない、答えを求めない。だから、ここらへんで終わりにしましょう。
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