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まだちょっと寒いながらも
今日は、日差しが戻り、見上げると
庭の桜の蕾が、ひとつ、ほころび
足元では、
イカリソウ オレンジクィーンの花が咲き出していた
前回に続き、もう少し、アドラーの教え『嫌われる勇気』からの引用を
載せておこうと思います。
アドラー心理学の立場は違います。人生を登山のように考えている人は、自らの生を「線」としてとらえています。この世に生を受けた瞬間からはじまった線が、大小さまざまなカーブを描きながら頂点に達し、やがて死という終点を迎えるのだと。しかし、こうして人生を物語のようにとらえる発想は、フロイト的な原因論にもつながる考えであり、人生の大半を「途上」としてしまう考え方なのです。
(では、人生はどんな姿だとおっしゃるのです!?)
線としてとらえるのではなく、人生は点の連続だと考えてください。
チョークで引かれた実線を拡大鏡で覗いてみると、線だと思っていたものが連続する小さな点であることがわかります。線のように映る生は点の連続であり、すなわち人生とは、連続する刹那なのです。
(連続する刹那?)
そう。「いま」という刹那の連続です。われわれは「いま、ここ」にしか生きることができない。われわれの生とは、刹那のなかにしか存在しないのです。
それを知らない大人たちは、若者に「線」の人生を押しつけようとします。いい大学、大きな企業、安定した家庭、そんなレールに乗ることが幸福な人生なのだと。でも、人生に線などありえません。(人生設計、あるいはキャリア設計なども必要ないと?)
もしも人生が線であるのなら、人生設計も可能でしょう。しかし、われわれの人生は点の連続でしかない。計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、不可能なのです。 (P264)
人生は、ダンスを踊るようなものだとも言う。
確かに人生の物語は面白いけれど、それによってしまうと
過去がその先(未来)をある程度予測して、
限定してしまうことになりかねない、とも。
奇跡と呼ばれる未知も含め、
あらゆる可能性を狭めてしまうのでしょうね。
遠い将来に目標を設定して、いまはその準備期間だと考える。「ほんとうはこれがしたいけど、やるべきときがきたらやろう」と考える。これは人生を先延ばしにする生き方です。人生を先延ばしにしているかぎり、われわれはどこにもいけませんし、味気ないモノクロームの日々が続くだけでしょう。「いま、ここ」は準備期間でしかない。我慢の時期だと思っているわけですから。
しかし、たとえば遠い将来の受験に向けて勉強をしている「いま、ここ」も、すでに本番なのです。(ですが先生、わたしには夢や目標も見つかっていません。踊るべきダンスさえわからない。わたしの「いま、ここ」には、まったく無益な刹那しか存在しないのです!)
目標など、なくてもいいのです。「いま、ここ」を真剣に生きること、それ自体がダンスなのです。深刻になってはいけません。真剣であることと、深刻であることを取り違えないでください。(真剣だけど、深刻ではない。)
ええ。人生はいつもシンプルであり、深刻になるようなものではない。それぞれの刹那を真剣に生きていれば、深刻になる必要などない。
そしてもうひとつ覚えておいてください。エネルゲイア的な視点に立ったとき、人生はつねに完結しているのです。
人生の意味とはなにか? 人はなんのために生きるのか? ある人からこの質問を向けられたとき、アドラーの答えは「一般的な人生の意味はない」というものでした。
仮に、大きな天災に見舞われたとき、原因論的に「どうしてこんなことになったのか?」と過去を振り返ることに、どれだけの意味があるでしょうか?
われわれは困難に見舞われたときにこそ前を見て、「これからなにができるのか?」を考えるべきなのです。そこでアドラーは「一般的な人生の意味はない」と語ったあと、こう続けています。「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と。 (P278)
人生は、その時々、そこでただ体験しているのであったら、
あれこれ悩むまでもなく、味わいながら、
ちょっと楽に、客観的に在ることもできそうです。
それぞれのバランスと成長のために、
調和をとりながら、拡大・発展していく時代、
この早くて大きな変化の時に、
過去や未来をさまよっているのはもったいなく、
今ここの連続を味わっていきたい気もしますね。
今ここを生きる天才といえば… こちら↓
こちらも今季初、トカゲを追いかけ回していた(-_-;)
本猫は遊んでいるつもりらしいが、
トカゲにしてみれば、尾を切り、命がけ。
しばらくすると、飽きて、トカゲは命拾いしたようだ。
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