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晴れていたが、天気は変わりやすく
ざっと雨が降ってきたり…。
グラジオラスが開花
樹木たちは子供を教育し、コミュニケーションを取り合い、
ときに助け合う。その一方で熾烈な縄張り争いをも繰り広げる。
学習をし、音に反応し、数をかぞえる。
動かないように思えるが、長い時間をかけて移動さえする——
2015年にドイツで出版され、ベストセラーとなった一冊。
この邦訳が、今年の5月に出た。
図書館にあったので、予約して読んでみた。
著者のペーター・ヴォ―ルレーベンは、子供の頃から自然に興味を持ち、
大学では林業を専攻。卒業後は、行政の立場で、森林の管理に携わっていた。
やがて、採算や人間の都合ばかりを優先した人間本位の営林方法に
疑問を感じ、独自の調査・研究、専門家と関わり、
樹木の生態に即した森林管理を模索していったという。
そして、公務員としての限界を感じて、独立したそうだ。
彼の考えに賛同した近隣の自治体が、森林の保護と管理を委託。
真摯に、森林と樹木に向き合っているだけあって、説得力があり、
経験と科学的裏付けにとどまらない
樹木への愛があふれている。
思いのほか、読みやすく
興味をひかれる語り口に、どんどん読み進んでいける本だ。
木も、張り巡らせた根、香りといった化学物質、他にも、電気信号、超音波、
周囲の菌類とのネットワークといったもので、緊密な情報交換、
いわばコミュニケーションをとっているという。
森林というコミュニティでは、高い樹木だけでなく、低木や草なども含めたすべての植物が同じような方法で会話をしているのかもしれない。しかし、農耕地などでは、植物はとても無口になるようだ。人間が栽培する植物は、品種改良などによって空気や地中を通じて会話する能力の大部分を失ってしまったからだ。口もきけない、耳も聞こえない。だから害虫にとても弱いのだ。そのため、現代の農業では農薬をたくさん使うようになった。栽培業者は森林をお手本として、穀物やジャガイモをおしゃべりにする方法を考えたほうがいいのではないだろうか。
どうして根がいちばん大切なのだろうか? それは、この部分に樹木の脳があると考えられるからだ。そう、“脳”だ。大げさすぎるって? しかし、木が学習をして記憶できるのなら、記憶を貯めておく場所が必ずどこかにあるはずだ。それがどこなのかはまだわかっていないが、その場所としては根がもっとも適した器官ではないだろうか。
人間がよかれと思って行っている営林も、
実は間違っている可能性も多いという。
私たちには、勝手な思い込みもあり、
まだまだ自然のことを知らないのだ。
私は学生のころ、古い木よりも若い木のほうが元気で成長も早いと教えられた。この理論はいまだに信じられていて、森を若返らせる根拠とされている。“若返り”と言うと聞こえがいいが、実際には年老いた木を倒して、若い木を植えるだけだ。そうすれば、森は安定して生産量が増え、大気中の二酸化炭素も減少する。森林組合や林業専門家はそう主張する。樹種によって多少の違いがあっても六〇歳から一二〇歳ぐらいで成長が鈍るのだから、そのころには伐採したほうがいい、と考えるのだ。
“永遠の若さ”という私たちの社会が生んだ幻想が森林にも投影されているようだ。樹木にとっての一二〇歳は、人間の年齢に置き換えるとようやく学校を卒業して社会に出るころだろう。実際、国際的な研究チームが、これまでの定説が完全に間違っていたことを証明した。チームは、すべての大陸で合わせておよそ七〇万本の樹木を調べた結果、驚きの事実を発見した。木は年をとればとるほど、成長が早くなる。たとえば、幹の直径が一メートルの木は、五〇センチの木に比べておよそ三倍のバイオマスを生産する。
樹木の世界では年齢と弱さは比例しない。それどころか年をとるごとに若々しく、力強くなる。若い木よりも老木のほうがはるかに生鮮的であるということは、私たち人間が気候の変動に対抗するとき、本当に頼りになるのは年をとった木だということを示している。
自然治癒力など、私たち、人間の身体もそうであるが、
フィトンチッドなど、樹木の持つ巧みな作用にも
目をみはるものがある。
樹木が出す抗生作用によって、時に
まわりの環境も消毒されていることになるらしい。
木は歩けない。誰もが知っていることだ。それなのに移動する必要はある。では、歩かずに移動するにはどうしたらいいのだろうか? その答えは世代交代にある。どの木も、苗の時代に根を張った場所に一生居座りつづけなければならない。しかし繁殖をし、生まれたばかりの赤ん坊、つまり種子の期間だけ、樹木は移動できるのだ。親の木を離れた瞬間に種子の旅が始まる。その多くはとても出発をとても急いでいるようだ。
種子が、風、小動物、鳥によって運ばれていくのは身近でもわかる。
では、どうして樹木が移動するかというのは、
気候がつねに変動を続けるからだという。数百年あるいはそれ以上の
年月を経て変わる気候に伴い、樹木も生活環境を変えていくという。
氷河期、間氷期、ブナの移動について述べられているが、
やはり、人間が手出しをしたことで、
森林の生態系が大きくゆがめられてしまった。
樹木は移動するので、森はつねに変化する。森だけではない、自然全体が変化を続けている。思いどおりの景観をつくりだそうとする人間の試みがほとんど失敗するのもそのためだ。自然が静止しているように見えるのは、ごく緩やかな移り変わりの一部しか見ていないからにすぎない。——樹木は自然界においてもっともゆっくりと変化するものの一つだからだ。数世代の時間をかけて観察してはじめて、樹木の変化を確認することができる。
私の森のなか、古い広葉樹が集まっている場所を散歩した人々は声をそろえて「気分がいい」「とても落ちつく」と言ってくれる。一方で、針葉樹林を歩いた人々は——中央ヨーロッパの針葉樹林はほとんどが植林地、つまり人工林——そのような感情を抱かない。ブナ林などの広葉樹林では“危険を知らせる叫び声”があまり発せられていない。そのかわりに落ち着いた会話が木々のあいだで交わされていて、それを私たちが鼻から吸い込んでいるからではないだろうか。人間は森の健康状態を無意識のうちに理解できる、と私は確信している。
原生林を再生するには、長い長い年月が必要だ。
壮大で計り知れない自然の営みのもと、
私たちには謙虚さが必要となる。
人間と動物の歴史を振り返ってみると、近年になって両者の関係が改善しているような気がする。いまだに大量飼育をはじめとする残酷な行為が行われているが、それでも私たちは動物の気持ちや権利を少しずつ理解し、尊重しはじめている。動物を “モノ”として扱わないことを目的として、ドイツでは一九九〇年に動物の権利を改善する法律も定められた。――動物も人間と同じような感情をもつことがわかってきた今、こうした動きは歓迎すべきことだと思う。
感情をもつのは、なにも人間に近い哺乳類に限ったことではない。昆虫もそうだ。カリフォルニアの研究者がショウジョウバエも夢を見ることを発見したのだ。そうはいっても、ハエに共感したり同情したりする人はまだまだ少ない。森の樹木となればなおさらだ。
著者は、私たち自身も自然の一部であり、
ほかの生き物の命を利用しないと
命を維持できないようにできており、それは
どの生き物も同じ運命を共有しているという。
問うべきは、人間が必要以上に森林生態系を自分のために利用していいのか、木々に不必要な苦しみを与えてしまってもいいのか、ということだろう。家畜と同じで、樹木も生態を尊重して育てた場合にだけ、その木材の利用は正当化される。要するに、樹木には社会的な生活を営み、健全な土壌と気候のなかで育ち、自分たちの知恵と知識を次の世代に譲り渡す権利があるのだ。
ドイツの憲法には「動物、植物、およびほかの生体を扱うときには、その生き物の尊厳を尊重しなければならない」と記されている。これを守るなら、道端に咲く花を意味もなく摘むことは許されない。世界のほかの国の人々からは、このような考えはあまり理解されないかもしれないが、私個人としては、動物と植物の両者を隔てなく道徳的に扱うべきだという考えに賛成できる。植物の能力や感情、あるいは望みなどがよりよくわかるようになれば、彼らとの付き合い方が少しずつ変化するのは当然だろう。
面白く、興味深い内容だったが、何より、全体を通して
著者の樹木への慈しみが伝わってくるのもよかった。
樹木、森林を通して、私たちのこれからの在り方をも
示唆してくれている。
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