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『老いる勇気 これからの人生をどう生きるか』岸見一郎氏

 

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アドラー心理学のベストセラーとなった

『嫌われる勇気』の著者である岸見一郎氏の

近刊が『老いる勇気』

 

老いる勇気 これからの人生をどう生きるか

老いる勇気 これからの人生をどう生きるか

 

 

タイトルだけ見ると、

先の『嫌われる勇気』そして続編の『幸せになる勇気』

に連なるシリーズかと思いきや、これまでの

哲人と若者の対話という形式でのアドラーの教え

というわけではないですね。

 

アドラー心理学研究の第一人者であり

もともとギリシア哲学が専門の著者が

「老い」と「人生」について語っています。

 

著者は、年齢的にはまだ60代に入ったというところで

老齢というほどでもないと思いますが、

岸見氏ご自身が50代で大病をされたり、

ご両親の介護や認知症などの

実体験を踏まえて書かれており、

アドラーや哲学の知識を交え、

副タイトルにあるように

「これからの人生をどう生きるか」               

示唆に富む内容となっています。

 

 余命は誰にもわかりません。この事実は変えられない。変えられるのは、私たち自身の意識です。老いる勇気──老いた「今」を幸せに生きる勇気とは、人生の見方をほんの少し変える勇気なのかもしれません。

 老いが私たちにもたらすものは、病や衰えばかりではありません。介護をしたり、されたりという問題も出てくるでしょう。身近な人の死に遭遇し、それを乗り越えるという試練にも直面します。

 そんな時も、ほんの少し見方を変えると、心に救いの光が射すものです。

 

定年後はもちろん、高齢になっても

チャレンジ精神の旺盛な人もいれば

そうでない人もいるのは、

若い世代でも同様で、年齢というより

個人差ではないかという気もしますが、

多かれ少なかれ身体的な変化や衰えには

直面せざるをえません。また、

歳をとるのは自分だけでなく

周りもそうで、常に状況も変わっていきます。

 

多くの親は「将来のことをちゃんと考えなさい」と子どもを諭し、会社では「先々の展開を読んで、ちゃんと手を打っておけ」と教わります。なぜ、先々のことをそんなに案じるのでしょうか。

 それは、時間や人生を一本の直線としてとらえているからです。

多くの人は時間や人生を、始まりと終わりがあり、不可逆的に終点へと向かう動き、ととらえています。

 こうした動きを、アリストテレスは「キーネーシス」と呼びました。キーネーシスにおいては、どこに到達したか、何を成し遂げたかということが重要になります。何事も、速やかに、効率よく成し遂げられることが望ましく、動きが中断されたり、寄り道をしたりすると、それは未完成で不完全な動きということになります。

 

 しかし、たとえどこかに到達しなかったとしても、そのプロセスの一瞬一瞬が完全であり、完成されたものであると考えることもできます。この場合、時間や人生の長さは問題になりません。

「なしつつある」ことがすべて、そのまま「なした」ことになる動き。これがアリストテレスのいう「エネルゲイア」です。

 エネルゲイアは、喩えるならダンスのような動きです。ダンスは、踊っている一瞬一瞬が楽しいのであって、踊り切らなければ楽しめないというわけでも、どこかに到達するために踊っているわけでもありません。

 人生も、生きている「今、ここ」が、それ自体で完成されたエネルゲイアです。そういう生き方ができれば、老い先の短さを憂い、暗澹たる気持ちになることはないのです。

 

  

 

年配になっても意欲的に生きるためには

他者や理想と比べないこと、

今できること、できたことを評価すること

いくつになっても新しいことを始められること

人間は進化する存在であること…などを

心にとめておくといいようですね。

 

 ありのままの自分に価値を認め、「今、ここ」にある自分を好きになる──そのためには、価値についての考え方を転換する必要があります。生産性に価値がないわけではありません。生産性にのみ価値があるわけではないということです。

 

アドラーは「すべての悩みは人間関係である 」と語り、

介護の悩みも人間関係の悩みとなります。

対人関係で、他者は変えられないとすれば

自分が変わるしかなく、それには

「おとなになる」必要があります。

 

おとなになるための要件には次の三つがあり、

自分の価値を自分で認められること。

自分が決めなければならないことを、自分で決められる。

そして、自己中心性からの脱却。

 

 他者の評価・承認を求めず、自分と親との課題をきちんと分けて考え、親は自分の理想や要求を満たすために生きているわけではないと知る──。この三つの要件を満たした“おとな”になることは、ありのままの親を受け入れることができるようになる、ということでもあります。 

 

とはいえ、できる限りのことをしたとしても

親を幸せに「する」ことはできないともいいます。

 

三木清は、「我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか」と指摘しています。人は誰かを幸福にしたり、誰かに幸福にしてもらったりすることはできません。家族の幸福を思うなら、まずは自分が幸福であること。それ以上のことはできないのです。

 

著者も無理を重ねた末、自宅での介護に限界を感じ、

幸い、施設でみてもらうことができ、

お父様も施設に入ったことで状態もよくなったそうです。

介護を施設に託すことに抵抗や躊躇を感じる人も

いるようですが、前向きな選択肢の一つと考えていいと

述べています。

 

また、夫婦などをはじめ、共同体感覚を持つことや

幸福であること

老いの幸福を次代に伝えることなどについても

言及されており、長くなるので(既になってるか…)

切り上げますが、もう一つだけ載せておきましょう。

 

 リスが忘れたドングリで森ができるように、あるいは父の本棚に眠っていた本が

私を学問へと誘ったように、意図せず誰かの役に立ち、大きな森を育てるということはあります。  

 忘れてしまってもいいのです。「今、ここ」を充実して生きることが、豊かな森をつくり、次世代の糧となるドングリを実らせる──そう考えれば、過去を思って後悔したり、未来を思って不安になったりする必要はなくなります。         

 ちなみに、リスの忘却によってできるのは「森」です。神が宿るのも森であって、「林」ではありません。林は「はやす」から来た言葉で、人工的に作られたものだからです。

 人間も、ひとりでに育つ森であり、親の期待や計画どおりに形づくられる林ではありません。親や祖父母にできる最善のことは、子どもという森が育つのを邪魔しないことです。

 

老いに限らず、結局、私たちはその時々で

それぞれが、どう生きるかを

問われているのだとも感じます。

 

 

 

 

www.salon-shiroineko.com

 

 

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