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青色フジバカマに、今季初のハイビスカス一輪
ピアニストとして長年ご活躍の舘野泉氏。
2002年に病に倒れ、右手が利かなくなったが
2004年以降、左手のピアニストとして御健在です。
先日の記事で、読んでみたいなといってた本を
昨日、図書館で手にすることができました。
今朝というか、ほとんど昼近くだけど
食後にコーヒーを飲みながらパラパラと目を通しているうちに
すぐに読めちゃった。
副題に
「左手のピアニスト」の超前向き思考
とあるように
ほんとに前向きな方でいらしたんですね!
このような自然体でこだわりのない方とは
嬉しい驚きでした。
おそらく、天性のものでしょうが、
だから、世間では大変だと思われる状況でも
そんなふうにはとらえていない…
こうした自由な在り方は、爽快です。
人間、病気や怪我で何かを失うことはあるけれど、経験として積み重ねたものは、何があっても奪われません。僕のピアニストとしての右手は失われてしまいましたが、音楽を生きた時間というものはちゃんと自分の中に堆積している。だから左手で音楽を奏でることができる。そして、自分の演奏能力というものが、まだまだ大きくなっているという実感もある。
僕は右手を奪われたんじゃない。左手の音楽を与えられたのです。
確かに歳をとったなあと痛感することは増えました。脳溢血をやったせいで、右半身は自由ではありません。普段の生活も、人より労力をはらわなければなりません。でも正直、不安に思ったことがないのです。
自分の手のひら──今や左手だけですが──その上に盛れることだけをやっていると、自然と世界が広がっていきます。新しく広がったところからは、新しい夢が湧いてきます。
生まれた時から音が周りにあって、音があるのが当たり前の生活だと思って生きてきました。自分にとって、ピアノを弾くことは特別なことじゃない。それは呼吸しているのと同じことです。よく周りから「音楽は何ですか」と聞かれるけれど、小さい時からずうっとそこに、変わらず音楽があったのです。
脳出血した部分は後頭部だったのでメスを入れられない。自然治癒を待つほかなく、一か月間は寝たきり。入院二か月目からリハビリが始まった。
リハビリに苦労したという実感もないし、つらくもなかったのだけど、新聞や雑誌のインタビュー記事で「つらい体験だった」と書かれてしまう。「苦労を乗り越えて復活した」というほうが、ドラマチックだし、皆、リハビリはつらいものだと思い込んでいるのかもしれないけれど、実際は、そんなことはなかった。僕は本当に、リハビリが楽しかったの。だってすべてがまさに「初めての体験」だったんだから。
つらいことがないわけではない。
悲しみを感じないわけではない。
しんどいと思うこともある。
苦しいこともある。
痛みもある。
瞬間、瞬間に、つらさや苦しみを感じることは、誰にでもあります。長く続くこともある。でもそれは切り離せない人生の一部です。
他の人に聞いてもらって、つらさや苦しみを紛らわせる人がいるけれど、僕はあまり、というより、ほとんど人に話しません。聞く相手にも負担がかかります。それに、自分の痛みの核は、結局他人にはわかりません。
なにかに心惹かれたら、とにかくその気持ちに従います。そしていつの間にかその世界に入り込んでいる。すぐ行動に移すこともあるし、十年、二十年思い続けていることもあります。子供の頃からアイヌ文化に興味を抱いていました。今、アイヌ伝説をモチーフにした曲を依頼していることろです。先日は沖縄をテーマにした曲も、別の方にお願いしました。
フィンランドの音楽も随分開拓したけれど、ヨーロッパのほかの国々、アメリカ、南米、オーストラリア、中近東、アジアほかの地域についても同じ。好きなものに吸い込まれていく。気がつけば蜜蜂みたいに花の間を飛び廻っているのです。
演奏する立場でなく、一視聴者に過ぎないけれど、
これもそうだなぁと同感。
だから、またピアノで舘野氏のことを思い出したら
ご著書(本)があると知り、調べてたら新しい曲(CD)も知って
是非聴いてみたいと…忙しくなっちゃうんだ、これが(笑)
松岡さんのラテンフュージョンから広がったものもあるし
あれも、これもあるわ、と芋づる式に
興味は尽きないんですよね~(^^♪
うまいピアニストはたくさんいるけれど、僕はテクニックというものにまったく関心がない。テクニック的に趣向を凝らしている音楽に、興味がないんです。知識が豊富でも、新しい試みを試したとしても、音が「生きてない」としたら、それは面白くない。
ピアニストの場合、曲の解釈だとか、テクニックとか、そういうことが評価されるけど、大事なのは、その人が音楽している時の、存在自体の強さなのではないのでしょうか。
これもわかる。だって惹かれる演奏は、
決して完全無欠な出来栄えとかでなく
奏でる存在全体から響いてくるものだから。
僕は、自分のことを芸術家だと思ったことがありません。“手職人”だという自覚があります。これは、若い時分からずっとそうです。
“音楽を手で触る”という感覚は面白いものです。時には愛おしんだり、時には投げつけ、ぶつけ、放り投げたりもする。作曲家の生涯だとか、作品の構成だとか、歴史だとか、そういったものに興味を持ったり考えたりすることがありません。あるのは作品だけです、その音だけ。
舘野さんご自身は先生に向いてないといいます。
中には、指導方法に不満を訴える生徒もいた。
自分で考え、自分で学んできた子は、そのあと、大きく花開きました。もちろん僕のお蔭ではありません。
結局、ピアノはひとりで弾かなければならないのです。誰も助けてくれません。ピアノも人生もそう。歩むときは、ひとりなのです。
人生にゴールなんてありません。人生は常に通過点です。僕は、いつも瞬間を生きている。
僕には人生の理想も夢も、まったくありません。安全運転や楽することを目的にしたくない。伝統や形式は大事かもしれないけれど、それがすべてじゃない。完成形とか理想とか、そういうものも好きじゃない。あるのは“今の自分”だけ。自分がやりたいこと、できることを探して、その方向に向かっていく。
どこに向かうかわからないことも多いけれど、日々探っていくうちに、「あ、これだ」という手応えがある。確かな充実感がある。
「自分は生きている」という感触。でもそこを通過したら、それはそれ。次の日には結果を忘れて、また新しい日々の始まりです。
何か、いいな。
これからの時代にこそ参考になりそう。
物事にとらわれない自由な在り方。
感心しながら、気持ちが軽くなる一冊です。
連日、風が強すぎて、割と家にいたから
残暑の今日は、朝からお出かけちう…
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