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こんにちは。
今日も風が強く
庭仕事には気が向かず…。
それでも北東花壇で開花した

スズランの木 ブルースカイ
シルバー葉に白いベル型の花が愛らしい。

クレマチス シーボルティ

可憐な姫ヒオウギは
白花もあるのかな。
昨年、創元推理文庫の新装版で出た
ダイアナ・ウィン・ジョーンズの異色作といわれる
『わたしが幽霊だった時』を読んだ。
といっても
途中までは特に話がつかみにくいまま
(読みづらいと感じる人もいそう)
謎解きに惹かれて辛抱強く先に進み
(といっても速読っぽくなる癖あり)
最後の方は圧巻の展開。
歩きながら(事故だわ!)ふいにそう思った。事故に遭ったって思うんだけど、頭がふやけてて何も思い出せない。下を見たら体がない。生垣もドアも通り抜けて家の中に入った。部屋じゃ、だいっ嫌いな姉さんや妹たちが相変わらずのけんか。誰もあたしのことに気づかない。あたし、幽霊になっちゃったんだ……でも、なぜ? 英国ファンタジイを代表する著者のほろ苦くも暖かい物語。 (カバー後ろより)
そして巻末の
金原瑞人さんの解説がまたよかった。
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やはり昨年、創元推理文庫から出たもう一冊
『九年目の魔法』同様、スゴイ作家だな、って再認識ですね。
さて、
ちょうど昨秋から徳間書店から
月に一巻ずつ文庫化されている
(ダイアナ・ウィン・)ジョーンズさんの代表的なシリーズ
大魔法使いクレストマンシーの第一作目
『魔女と暮らせば』も読み直していた。
(こちらは児童書だからわかりやすい)
元の単行本は2001年に徳間書店から
田中薫子さんの訳に、佐竹美保さんの絵で出ています。
そしてこれがジョーンズ作品最初の邦訳で
1984年に偕成社から
当時ディアナ=ウィン=ジョーンズ作
『魔女集会通り26番地』として
掛川恭子さんの訳で出たんですね。
この装丁がなかなか素適!と思った(笑)けど絶版。
図書館の書庫にあったので借りてきました。

こちらは目次の章立てごとに見出しもついていて
第一章のタイトルが邦題となっている。
訳の違いはです・ます調。
キャット=チャントは、姉さんのグウェンダリンを崇拝していました。グウェンダリンは、魔女です。その魔女の姉さんを、キャットはあがめたてまつり、姉さんにしがみついてはなれませんでした。そんなふたりの生活に一大変化が起こり、キャットには姉さん以外、しがみつく人がいなくなってしまいました。
最初の大変化は、両親がふたりをつれて、外輪汽船の舟遊びにでた日におこりました。キャットたち一家は、そろって盛装をしてでかけました。
『魔女集会通り26番地』 掛川恭子訳
キャット・チャントは、お姉さんのグウェンドリンが大好きだった。グウェンドリンは魔女だ。キャットはお姉さんを崇拝し、いつもそばにくっついていた。
二人の人生に大きな変化がいくつも起こってからはとくに、キャットはグウェンドリンしかくっつく相手がいなくなってしまった。
最初の大変化が起きたのは、両親に連れられて出かけたときだった。その日四人は、外輪船に乗り、川下りをした。みんな、とびきりおめかしをしていた。
『魔女と暮らせば』 田中薫子訳

左から徳間文庫化(2026.1)、徳間書店(2001)、偕成社(1984)
ちなみに原題は、”Charmed Life”(チャームド・ライフ)
魔法にかけられた(守られた)、強運な、不死身の人生などの意味。
邦題はわかりやすいが、原題も本を読むとなるほどな、と思う。
両親をなくしたグウェンドリンとキャットの姉弟は
住んでいた魔女通りから、
大魔法使いクレストマンシーの城に引き取られる。
少女ながらグウェンドリンは野望に満ちた魔女で
子どもには魔法を使わせないというクレストマンシーと対立。
散々嫌がらせをしたあげく、別世界へ失踪。
入れ替わりにやってきた姉のそっくりさん、
ジャネットの面倒をキャットがみなければならず、
姉に頼りきっていた立場から頼られることへの困惑。
やがてグウェンドリンの野望と弟への仕打ちも明らかになり
大騒動に…。
1978年度ガーディアン賞受賞作。
面白いよ! 更にシリーズを通して読むとよくわかり、
この時のクレストマンシーはクリストファーなんだけど
やがてはキャットが継ぐのでしょうね。
実はクレストマンシーというのは職業で、
つけるのは九つの命を持った大魔法使いのみ。
ところでイギリスファンタジーの女王とも言われる
ダイアナ・ウィン・ジョーンズさんの本。
若い頃から英国児童文学好きの私が
何で今まで知らなかったのかと思ったけど
まあ、この初版が本国で1977年、邦訳が1984年
更に新訳が出たのが2001年。
クレストマンシーシリーズの続きはその後だったとなると
こちらは中高年となってたわけで、
アラカン過ぎてからの児童文学回帰で
巡り合ったのね(*´∀`*)
で、ジョーンズ作品(40冊以上あるといわれる半数近く)を
読み進んできたので
先日は図書館でこちらも借りて来た。
これは回想、トールキンやC.S.ルイスなどの作品論、創作や人生についての文章…
作者が選び抜いて遺した「物語の生まれるところ」が解き明かされる刺激的な一冊。
作家ニール・ゲイマン、研究者チャーリー・バトラーの序文からして納得の内容。
早速、最初のジョーンズさんの「森の中の子どもたち」から
付箋モノ(笑)。
さて、本というのは、また別の形の魔法の輪である。リアルな物語であれファンタジーであれ、すべての本は読者がうまく楽しめる自己充足的な世界なのだ(作家がしている遊びを気に入らないなら、読者はすぐに読むのをやめられる)。わたしが見たところ、子どもたちがいちばん多くを得ている本は、子どもの遊びと似たような働きをする本――言葉を変えれば「ごっこ遊び」の働きを持つ本である。
ファンタジーが子どもの遊びの猿真似をすべきだと言うつもりはないが、いくつかの重要な点において、どこかこの遊びに似ているべきだとわたしは強く感じている。ファンタジーは何より、森の中の遊びと同様に心を弾ませ、魅了するものでなくてはならない。わたしの本は、むろん読者に楽しんでもらいたいが、自分でも同じくらい楽しんで書きたいと思っている。執筆中はいつも、これから何が起こるのだろうと考えていて、次に起こったことが退屈なら書くのをやめてしまう。しかし、本にはそれ以上の長所がある――真実のように感じられるということだ。あることが真実だと作中で言えば、その本の中でそれは真実なのである。これはすばらしいことだが、ときには罠にもなり得る。遊んでいる子どもたちの様子を常に心にとめて、自分が書くファンタジーをコントロールしなくてはならないとわたしは常に肝に銘じている。
(中略)
しかし.、結局のところ、ファンタジーには説明を拒否する側面がある。森の中の子どもたちは大人になり、そこで遊んだことを思い出すだろう。何をして遊んだか、だれが何のふりをしたかは覚えていないだろうが、森とそれを取り巻く大きな町のことは、特別なものとして鮮明に思い出すにちがいない。ファンタジーには独特な作用がある。読者を日常の平凡な事柄の外まで引き伸ばして、特殊なエネルギーで満たし、名状しがたい形で豊かにするのだ。
少なくとも、わたしはそういうファンタジーを理想としており、常に書こうと努めている。
特に書き留めたかったとこ(太線)はこちらで。
もう夜ではあるけど
珍しく昨日に続く
連日のブログ更新となりました。
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