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訳者の菅靖彦氏があとがきで述べたように
二人のノーベル平和賞受賞者でもある
ダライ・ラマ法王十四世と
(南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)への抵抗運動での
指導的役割を果たした)の
時にお茶目な対談ドキュメントが、今秋初めに出版された。
ダライ・ラマ十四世の80才のお誕生日を祝うために
彼らは「喜び」をテーマに語り合った。
インタビュアーも務め、科学的な考察なども含め
編集したダグラス・エイブラムス氏は長年、
ツツ大主教と共に仕事をしてきた。
世界に強い影響力を持つ二人の対談が
ドキュメンタリータッチで描かれ、
深い洞察がユーモアと共に語られており、
時にとてもお茶目なやりとりには
親しみを感じると同時に心が安らぎます。
今、地球上で繰り広げられている世界の情勢を
見るまでもなく、苦しみ多き世の中で
喜びを持って生きるとはどういうことなのか。
苦しく辛い中で喜びを持つのは難しいと考えがちの
私たちに、苦難の人生を歩んできたこの二人の
偉大な教師は、”苦しみがあるからこそ、
真の喜びを知ることができる”と繰り返し説いている。
――「どんな出来事にもさまざまな側面があります。たとえば、私たちは自分の国を失い、難民になりましたが、その経験がより多くのものを見る新たな機会をもたらしてくれました。――もしもラサのポタラ宮殿にとどまっていたら、黄金の籠(ラマ僧、聖なるダライ・ラマ)とも呼ばれてきた地位にあぐらをかいていたことでしょう」。
「個人的には、亡命生活の五〇年は良かったと思っています。より有益で、学ぶ機会や人生を経験する機会をより多く持てたからです。一つの角度から見れば、最悪で悲しいと感じることでも、同じ悲劇、同じ出来事を違う角度から見ると、それが自分に新たな機会をもたらしていることがわかります。だから、素晴らしいのです。私が悲しんでいないのはそのためです。“友達がいるところはどこでもあなたの国であり、愛を受け取るところはどこでもあなたの故郷です”というチベットのことわざがあります」
「つけ加えて私たちの兄弟姉妹に言いたいことがあります。苦悩や悲しみは多くの点で、制御することができません。それらは自然に生じます。誰かに殴られたとしましょう。痛みはあなたの中に苦悩や怒りを生み出します。あなたは仕返ししたくなるかもしれません。でも、仏教徒であれクリスチャンであれ、またその他の主教的な伝統に属していようと、霊的な成長を遂げれば、自分の身に起こることはどんなことでも受け入れられるようになります。罪があるから受け入れるのではありません。起こってしまったことだから受け入れるのです。人生はそうやって織りなされていきます。好むと好まざるとにかかわらず、起こることは起きます。人生にはフラストレーションがつきものです。問題は、いかに逃れるかではありません。いかにしてそれを肯定的なものとして活用できるかなのです。――」
「―― 幸せの究極の源は私たちの内側にあります。お金でも、権力でも、地位でもありません。私の友人には億万長者もいますが、あまり幸福な人々ではありません。権力やお金は内的な平和をもたらすことができません。外的な達成は真の内的な喜びをもたらしません。私たちは内面を見なければなりません。
悲しいことに、喜びや幸せの土台を侵食する物事の多くは、私たち自身が作り出しています。それは否定的な心の傾向や感情的な反応から生じます。私たちの内部に眠っている潜在能力を認識し、活用することのできない非力さから生じることもあります。自然災害による苦しみはコントロールすることができませんが、日々の災いから生じる苦しみはコントロールできます。苦しみのほとんどは私たちが生み出すのですから、喜びだって生み出せるはずです。生み出せるかどうかは、状況や他者に対して私たちが取る態度やものの見方、反応に左右されます。個人の幸福について言えば、私たちが個人としてできることがたくさんあります」
私たちの心は放っておくと
人の言動や出来事にすぐ反応し
いら立ちや不満、怒りや悲しみなど
否定的な想いにいとも簡単に支配されてしまいがちだが、
それを俯瞰するように、視点を変えてみることも出来る。
ネガティブでいるかポジティブであるか
実は、全ては個人の選択次第というわけだ。
「ストレスや不安は往々にして期待しすぎや、野心を持ちすぎることから生じます」とダライ・ラマは言う。「私たちは期待を果たせないとき、あるいは、野心を達成できないとき、いらだちを感じます。野心満々というのは自己中心的な態度なのです。あれが欲しい、これが欲しい、というわけです。しばしば私たちは、自分自身の能力や客観的な現実を直視しようとしません。自分自身の能力を明確に把握すると、自分の努力を現実的に捉えられるようになります。そうすれば、自分の目標を達成するチャンスがずっと広がります。けれども、非現実的な努力は災いをもたらすだけです。私たちのストレスは、期待や野心によって生み出されるケースが多いのです」
おそらく、それは優先順位の問題である。本当に追いかけるに値するものとは何だろう?
私たちが本当に必要としているものは何だろう? 大主教やダライ・ラマによれば、それは愛とつながりであるが、現代の生活には充分に行きわたっていない。そのことを理解すれば、私たちはいかに生きるべきかに意識的になり、やみくもに獲得することやつかみ取ることに邁進することはなくなる。ダライ・ラマが勧めるのは、もっと現実的になることである。そうすれば、いつも自分の期待や野望を追いかけるのではなく、内的平和の感覚を抱けるようになるというのだ。
恐れやストレスや絶望など
喜びを妨げる人生の要素について考察し、
では、喜びを持って生きるために必要なものとして
次の八つの要素を挙げて、「喜びの八本柱」と名付けている。
それは
物の見方、謙虚さ、ユーモア、受容、
許し、感謝、思いやり、寛大さ、である。
「ダライ・ラマと私が提唱しているのは」と大主教が付け加えた。「不安を扱う方法です。われわれは自分と同じような境遇にある人や、自分より劣悪な境遇にあるにもかかわらず、しぶとく生き残って成功している人について考えることができます。自分自身をより大きな全体の一部とみなすと、とても気が楽になります」
繰り返しになるが、「つながり」こそ喜びの道であり、「分離」は悲しみの道なのだ。他人を分離しているとみなすと、脅威となる。私たちの一部であり、つながりを持って相互に依存し合っているとみなすと、挑戦的になる必要はない。
人は誰もが、愛と繋がりを求めて生きている。
分離感は喜びを遠ざける。ただし、人は
周りに人々がいても孤独感を感じることもあれば、
また独りでいても満ち足りていられるように
これは内的に心からのつながっているという
感覚を持つかどうかであり
外側からはわからない。
すべては、内側の心の在り方次第で、
その心を育むことこそ優先事項だと伝えている。
ダライ・ラマ法王が
これからの世界を変えていくのに重要なのは
個別の宗教(それがどんなに優れていたとしても)ではなく
新しい教育だと述べていたのも印象的だった。
彼らのしぐさや表情も描写され、
微笑ましい心温まる友情物語ともなっている。
また、チベット子供村で行なわれた誕生パーティのくだりなど、
親から離れて暮らすことになったいきさつを子供たち自身が語る
姿には心を打たれる。
私は、たいていの本は、
速読だったり、拾い読みが得意な方で
さっと読み終えることも出来るのだが
今回は、じっくり読み入って
時間がかかってしまった(笑)
「これが仏教徒やキリスト教徒の本でなく、科学によっても支えられている普遍的な本であることが重要なのです」とダライ・ラマは語っている。
巻末には、喜びの実践のための手引き、
実際に法王や主教が行っているという
プラクティス(ワーク)も載っています。
ダライ・ラマ法王は、
心の免疫をつけることが大切だと述べていましたね。
「人生のあらゆる出来事には」とダライ・ラマが語り出した。「さまざまなアングルがあります。同じ出来事でも、より広い視野から見ると、心配や不安が減り、より大きな喜びを感じます」。ダライ・ラマは、母国を失う不運をどのようにしてチャンスとみなすことができたかについて語った際、より広い視野を持つことの大切さを強調した。亡命の最後の半世紀を「肯定的に捉え直した」と彼が言うのを聞いたとき、私は開いた口が塞がらないほど驚いた。彼は自分が失ったものだけでなく、得たものを見ることができた。交際範囲の広がり、新しい人間関係、形式主義からの脱却、未知の世界の発見、他者から学ぶ自由など。「ですから、ある角度から見たら、惨憺たる気分になり、悲しくなるような悲劇的な出来事も、別の角度から見ると、自分に新しい機会を与えてくれることがわかります」
ダライ・ラマは、より広い視点、より大きな視点という言葉を使う。それらの言葉には、一歩下がって、自分自身の心の中で、より大きな構図を見、私たちの限られた自己認識や利己心を超えて進むという意味がこめられている。
追記:ちなみに、 ダライ・ラマ法王は、現在(11月に)
来日中とのことですね。
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