エブリディ・マジック-日だまりに猫と戯れ

草木と庭と猫と…本や日常のあれこれ、小さな発見

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今の自分だから出来る-『悩みを幸せに変える法則』苫米地英人氏

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今日も雨。

お天気の回復は遅いのか

結局、今も小雨が降っている。

昨日は、市の公園通りの

桜並木を車で過ぎただけでも、

見事だったのだが、

やはり雨に煙る桜の花だった。

 

 

 

 

 

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 庭の桜と利休梅も雨に煙る

 

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雨の中で、シャクナゲ(石楠花)が咲き出していた

 

 

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玄関先で咲いていたが、雨で倒れていたのを花瓶に

原種系チューリップ レディジェーン

 

庭へも春の到来なのに、

雨で足止めをくらっているのは

私も猫も同じ(笑)

 

ところで、

先月から、思いもかけず、新しいことを始めることになり、

いわゆる自信がないけれどスタートという、心もとなさがあった。

 

最近、コーチングで知られた苫米地英人さんの本を読んでいて

面白い個所が目に留まった。

 

 講習会やセミナーでも「どうしたら自分に自信が持てるんでしょうか?」という質問は絶えません。

 そのたびに、私はこう答えています。

 「自信なんて、いりません」

(中略)

 自信とは、過去の実績のことです。いわば、ここまでうまくやってきた、ということ。

 だから、「今回もうまくいく!」というのが、「自信がある」というわけですけど、過去はもうすでに終わったことであり、決してまた巡ってはきません。

「前回この勝負に勝ったから、今回も勝てる!」という自信は、過去にすがっているだけです。

 

コーチング用語でいうと、「現状の中にいる」ということで、

居心地のいい現状にいるだけでは、今の自分からは脱却できない”と続き、

自信のかわりには、高い自己評価(エフィカシ―)を持てばいいという。

自己評価が高いと実績がなくても、

やり遂げることができると思えるという。

 

 本当に持ってもらいたいのは、「今の自分だからできる」という、確信なのです。

「ここまで練習してきたから大丈夫」は、意味がありません。

「失敗続きだったから、ちょっと自信がない」なんてのは、論外です(苦笑)。その失敗は、戻ってくることのない過去ですからね。

 ですが、「ここまで練習してきたからあきらめない」は、ありです。その練習と“今”が、続いているからです。

 

まあ、確信もなかったのだが、ふと感じていたのは、

前はできないと思っていたが、

「今の自分だからできる」のかもしれないというところ。

 

確かに経験がものをいうともいうが、最近感じるのは、

過去がどうということより、今、これからどうかという

ほうに焦点をあてたほうがいいようだということ。

 

コーチングでは、時が、過去から、未来へ流れるのでなく、

逆に、未来から、過去へと考えるようでもあるが、

それをおいても、変化の時代には、今まで以上に

特に、過去に固執しないほうがいいように感じる。 

 

ちなみに、引用した本は、女性誌に連載されたということで

苫米地氏の著書の中では、専門用語が少ない。

たぶん、わかりやすい一冊。

 

悩みを幸せに変える法則

悩みを幸せに変える法則

 

 

悩むのは、暇だからという話もあって(笑)

現状を打ち破る?刺激を受けられるかもしれません。

個人だけでなく、社会にも広がる内容が

興味深い著書が多いです。

苫米地氏が、一貫して伝えているのは、

社会や国家、権威に洗脳されずに、

自分の人生は自分でつかみなさい

ということでもありますね。

 

自信を持つとか、自己評価を高めるというと

難しく考えてしまいがちですが、

とにもかくにも、人と比べないことだったり、

何よりも、自分の気持ちや感覚を信じるという

ことにつきるように感じます。

 

 

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春先のあれこれ

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庭の桜の花も咲いてきて

ようやく春らしくなってきたかと

思うものの、曇ったり降ったり

天気も忙しいうえ、

風がかなり強い。

 

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 リキュウバイ

 

桜や利休梅の花も、

いつのまにか蕾がついてる

背の高いチューリップやらがなぎ倒されるので、

気になってしまう。

何しろ、写真も撮りづらい。

 

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 カイドウ(海棠)の花も開き出して

 

 

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白いシャクナゲ(石楠花)の蕾(はピンク)もふくらんできた

 

 

 

 

 

さてと、今日は

今朝、ツィッターで拾った話を

リンクさせていただくことにします。

 

なんと、氷点下の雪山に海パンで登頂したという

 

shindenforest.blog.jp

 

おなじみって、私がよく拝見している

獣医の森井啓二さんのブログからです。

 

それにしても、挑戦する人間って

無謀とはいえ、確固とした志があると

すごいし、面白いものだなあと思います。

 

これはさておき、

私のコンセプト(があるんだよ、一応)にも合って

森井啓二さんのブログは、丸ごと紹介したい

(知っておいて頂きたい)記事ばかりなのですが、

例えば、次のような内容などもそうです。

 

shindenforest.blog.jp

 

ちなみに、コンセプトについてはこちら

 

www.salon-shiroineko.com

 

 

ところで、最近

仕事というか遊びのような(ってどんなだ・笑)出会いで

続けて、年上の方にお会いする機会があって

いろいろ感心させられたのだけど、ひとつは

みんな若いなあということ。

年齢などのステレオタイプでひとくくりというのは、

過去の遺物で、すべて個人個人の意識次第なんだということ。

この変化の大きな今の時代では、

個人差があるだけなんだとあらためて感じた。

 

そして、人はそれぞれでいいし、やはり人とつながることは

大切なんだなということも。

今は、間接的な繋がり(例えばネット)もあるが、

出来れば、実際にお会いするのが一番だとも思った。

ここ数年、割と引っ込んだ生活をしていたのもあり、

この春は想いを新たにしています。

 

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ホワイトセージの花と株

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ようやく気温も上がってきて

春らしくなってきたようですが、

今日はちょっと風が強かった。

 

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庭の桜の花はちらほらで、

リキュウバイ(利休梅)の白い花が

目につき出したかな。

 

 

 

 

白い花といえば 

なぜか、庭の中央にあるホワイトセージ

花の時期はまだ先ですが、

以前、こちらに種について書きました。

 

www.salon-shiroineko.com

 

その時、リンク先にした旧ブログを閉じてしまうので、

こちらに転載です。(2016年6月の記事より)

 

 

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今年更に、大株になったホワイトセージ。

高々と花穂が五つ上がって、存在感大。

 

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ホワイトセージって、そもそも小低木なので、

大きくなるのもわかるのですが、

イメージが、ネイティブアメリカンの聖なるハーブとして

乾燥させた葉を、スマッジ(浄化)に使うというくらいだったので、

綺麗な花がたくさん咲いてくれるとは、うれしいですね。


昨年、初めて花が咲いたので、振り返ってみると、

それが植えて2年め、今年は3年めです。

 

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2013年春に購入した時の苗木

もう一本も育っていますが、そちらは、

植えたスペースが狭かったので、広がりづらいかも。

ちなみに、苗はこちら↓のものでした。

 

 

 

 追記:

 翌年、更に見事になったホワイトセージの記事です。

 

www.salon-shiroineko.com

 

 

 

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対等な横の関係を築くこと-アドラー心理学『嫌われる勇気』より

 

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 ボケ(木瓜)の花も開いてきた

  

 

 

 

アドラー心理学を扱った話題の1冊 『嫌われる勇気』

我が家の本は、家族も精読していたようだ。

 

私は、気にとまった箇所の書き抜きからの

こちらへの引用が3回目(最終回)なので、載せておきます。

 

www.salon-shiroineko.com

 

 

われわれが他者ほめたり叱ったりするのは「アメを使うか、ムチを使うか」の違いでしかなく、背後にある目的は操作です。アドラー心理学が賞罰教育を強く否定しているのは、それが子どもを操作するためだからなのです。

 

    誰かにほめられたいと願うこと。あるいは逆に、他者をほめてやろうとすること。これは対人関係全般を「縦の関係」としてとらえている証拠です。あなたにしても、縦の関係を生きているからこそ、ほめてもらいたいと思っている。アドラー心理学ではあらゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱しています。ある意味ここは、アドラー心理学の根本原理だといえるでしょう。

 

 そもそも劣等感とは、縦の関係の中から生じてくる意識です。あらゆる人に対して「同じではないけれど対等」という横の関係を築くことができれば、劣等コンプレックスが生まれる余地はなくなります。

 

 なぜ人は介入してしまうのか? その背後にあるのも、じつは縦の関係なのです。対人関係を縦でとらえ、相手を自分より低く見ているからこそ、介入してしまう。介入によって、相手を望ましい方向に導こうとする。自分は正しくて相手は間違っていると思い込んでいる。  

 

 強制ではなく、あくまでも課題を分離したまま、自力での解決を援助していきます。
 ほめるのでも叱るのでもありません。こうした横の関係に基づく援助のことを、アドラー心理学では「勇気づけ」と呼んでいます。 

 

 いちばん大切なのは、他者を「評価」しない、ということです。評価の言葉とは、縦の関係から出てくる言葉です。もしも横の関係を築けているのなら、もっと素直な感謝は尊敬、喜びの言葉が出てくるでしょう。

 

結局、対等な横の関係を築くということは、

コミュニケーションの基本の構え(スタンス)であるとも思う。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

ちょっと長くなりましたが、私自身は

アドラーのいう “共同体”についても

とても賛同したので、最後に載せておきます。

 

困難にあったとき、出口が見えないとき、彼は

より大きな共同体の声を聴け”と述べています。

 

 アドラーは自らが述べる共同体について、家庭や学校、職場、地域社会だけでなく、たとえば国家や人類などを包括したすべてであり、時間軸においては過去から未来までも含まれるし、さらには動植物や無生物までも含まれる、としています。

つまり、われわれが「共同体」という言葉に接したときに想像するような既存の枠組みではなく、過去から未来、そして宇宙全体までも含んだ、文字通りの「すべて」が共同体なのだと提唱しているのです。 

 

 

 

 

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桜ほころぶ…人生は“今ここ”の連続-アドラー『嫌われる勇気』その2

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まだちょっと寒いながらも

今日は、日差しが戻り、見上げると

庭の桜の蕾が、ひとつ、ほころび

 

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足元では、

 

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イカリソウ オレンジクィーンの花が咲き出していた

 

 

 

 

 

前回に続き、もう少し、アドラーの教え『嫌われる勇気』からの引用を

載せておこうと思います。

 アドラー心理学の立場は違います。人生を登山のように考えている人は、自らの生を「線」としてとらえています。この世に生を受けた瞬間からはじまった線が、大小さまざまなカーブを描きながら頂点に達し、やがて死という終点を迎えるのだと。しかし、こうして人生を物語のようにとらえる発想は、フロイト的な原因論にもつながる考えであり、人生の大半を「途上」としてしまう考え方なのです。 

(では、人生はどんな姿だとおっしゃるのです!?)
 線としてとらえるのではなく、人生は点の連続だと考えてください。
 チョークで引かれた実線を拡大鏡で覗いてみると、線だと思っていたものが連続する小さな点であることがわかります。線のように映る生は点の連続であり、すなわち人生とは、連続する刹那なのです。

 

(連続する刹那?)

 そう。「いま」という刹那の連続です。われわれは「いま、ここ」にしか生きることができない。われわれの生とは、刹那のなかにしか存在しないのです。
 それを知らない大人たちは、若者に「線」の人生を押しつけようとします。いい大学、大きな企業、安定した家庭、そんなレールに乗ることが幸福な人生なのだと。でも、人生に線などありえません。

(人生設計、あるいはキャリア設計なども必要ないと?)
 もしも人生が線であるのなら、人生設計も可能でしょう。しかし、われわれの人生は点の連続でしかない。計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、不可能なのです。           (P264)

 

人生は、ダンスを踊るようなものだとも言う。

確かに人生の物語は面白いけれど、それによってしまうと

過去がその先(未来)をある程度予測して、

限定してしまうことになりかねない、とも。

奇跡と呼ばれる未知も含め、

あらゆる可能性を狭めてしまうのでしょうね。

遠い将来に目標を設定して、いまはその準備期間だと考える。「ほんとうはこれがしたいけど、やるべきときがきたらやろう」と考える。これは人生を先延ばしにする生き方です。人生を先延ばしにしているかぎり、われわれはどこにもいけませんし、味気ないモノクロームの日々が続くだけでしょう。「いま、ここ」は準備期間でしかない。我慢の時期だと思っているわけですから。
 しかし、たとえば遠い将来の受験に向けて勉強をしている「いま、ここ」も、すでに本番なのです。

(ですが先生、わたしには夢や目標も見つかっていません。踊るべきダンスさえわからない。わたしの「いま、ここ」には、まったく無益な刹那しか存在しないのです!)
 目標など、なくてもいいのです。「いま、ここ」を真剣に生きること、それ自体がダンスなのです。深刻になってはいけません。真剣であることと、深刻であることを取り違えないでください。

(真剣だけど、深刻ではない。)
 ええ。人生はいつもシンプルであり、深刻になるようなものではない。それぞれの刹那を真剣に生きていれば、深刻になる必要などない。
 そしてもうひとつ覚えておいてください。エネルゲイア的な視点に立ったとき、人生はつねに完結しているのです。 

 

人生の意味とはなにか? 人はなんのために生きるのか? ある人からこの質問を向けられたとき、アドラーの答えは「一般的な人生の意味はない」というものでした。

 仮に、大きな天災に見舞われたとき、原因論的に「どうしてこんなことになったのか?」と過去を振り返ることに、どれだけの意味があるでしょうか?
 われわれは困難に見舞われたときにこそ前を見て、「これからなにができるのか?」を考えるべきなのです。

 そこでアドラーは「一般的な人生の意味はない」と語ったあと、こう続けています。「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と。    (P278)

 

人生は、その時々、そこでただ体験しているのであったら、

あれこれ悩むまでもなく、味わいながら、

ちょっと楽に、客観的に在ることもできそうです。


それぞれのバランスと成長のために、

調和をとりながら、拡大・発展していく時代、

この早くて大きな変化の時に、

過去や未来をさまよっているのはもったいなく、

今ここの連続を味わっていきたい気もしますね。

 

今ここを生きる天才といえば… こちら↓

こちらも今季初、トカゲを追いかけ回していた(-_-;)

本猫は遊んでいるつもりらしいが、

トカゲにしてみれば、尾を切り、命がけ。

しばらくすると、飽きて、トカゲは命拾いしたようだ。

 

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